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混迷の漂流国家ニッポン。政治の理想を追求すべく"新党ひとり"をバーチャル立党。それが『未来党(The Next Generation's Party)』。

『未来への提言』 下 (1997年論稿を一部加筆修正) [政治]

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ユートピアの条件

この約一世紀の間に、極端な宗教性と極端な唯物論の中に日本人は身を置いてきましたが、そのどちらの道にも人間を幸福にするシステムは見出せなかったということを歴史から学んだ私たち日本人は、両極端を去り、今こそ中道の道に入るべき時ではないでしょうか。

その中道の道とは、大いなる存在への畏怖と畏敬の念を持ち、己を虚しくして神々の願い、理想とは何かということを真摯に問い続けることだと思うのです。そして、さらに真の理想国家を建設していくということなのではないかとも私は思うのです。

「神などいない」、「あの世などない」と思うからこそ、人は傲慢になり、為政者は権力欲、支配欲に駆られることになります。

トマス・モアの『ユートピア』では、ユートピアにおける宗教について、寛容性をもって様々な種類の宗教が認められ信仰を持つことが基本とされているけれども、無神論者は軽蔑の対象となっています。

人間と動物を分かつもの、それはいったい何でしょうか?
道具を使う、物を作る・・・そういったこともあるでしょう。
しかし、私は「動物と人間を分かつものは『信仰心』の有無である」と考えます。

バブル期の日本人は「エコノミック・アニマル」とよく揶揄されました。
欧米の人々は、精神的バックボーンなしに海外マネーを貪欲に貪り食らう日本人の姿を動物の姿に重ねていたのでしょう。そして「お前たち日本人は何者なのだ?」ということを実は問うていたのではないでしょうか。

人類の歴史を見れば、キリスト教、イスラム教、仏教、ユダヤ教・・・など宗教の違いはあれども、信仰を持つ人々が圧倒的に多数派であることは動かしがたい事実であり、外国では相手がどのような「宗教」を信仰しているかを知ることが、相手を理解する重要なファクターとなっています。

たとえばホテルの予約シートに「宗教(Religion)」の記入欄があったり、その他いろいろな書類に同じく「宗教」の記入欄があるという話を聞きます。それほど生活に密接に宗教が根ざしているのが世界の常識というか主流派なのです。

つまり、「宗教」、「信仰心」というものが、人間としての共通項であると言えるでしょう。
そうであるならば、私たち日本人が目指すべき理想国家とは、この「信仰」というものが立脚点になくてはならないと思うのです。

ただ、「信仰」と言いましても、私は盲目の信仰に対しては警鐘を鳴らしたいと思います。
「人間性を向上させ、人生を豊かにする宗教とは何か」、ということを真剣に考えたうえで、正しい宗教選択をするべきだと考えております。

そうした意味において、神々の理想に沿った信仰心を取り戻せることができるのならば、キリスト教であれ、仏教であれ、日本神道であれ、あるいは新興宗教であれ、その種類は問いません。むしろ宗教が互いの違いは違いとして認めつつも尊重し合い、いかに人間を、世界を幸せにできるかという一点において切磋琢磨することが、巡り巡って私たちに還元されるベネフィットとなると考えるものです。

また、その過程において人々を幸せにしない、はっきり言えば人間性を狂わせる危険な宗教も自然淘汰されていくはずだと思っております。

いま求められる新たな鎮護国家の思想

国家の繁栄は正しい宗教の繁栄から始まります。
聖徳太子の時代、そして聖武天皇の時代しかり。
とくに聖武天皇の時代には、争乱、飢饉、干ばつや地震などの天変地異が相次ぎ、鎮護国家の思想へと繋がり、有名な東大寺の大仏建立へと至ります。

次々と襲いかかる災難に人々が苦しむのをご覧になり、聖武天皇は、「責めは予(われ)一人に在り。」
つまり、「自分の政治に問題があるからこのような天変地異が起きるのだ。責任は私一人にある」と語ったそうである。

今の政治家にこれほどの謙虚さと責任感があるのだろうか。
天皇という立場にもかかわらず、これほどの為政者がかつて日本にも存在したことを私は誇りに思います。

プラトンの『国家』には政治家の理想像として、哲人政治家、哲人王が掲げられています。
すなわち、政治家が哲学を学ぶか、哲学者が政治家にならなければ国民は幸福になれないという主旨のことが述べられていますが、聖武天皇とはまさにこの「哲人王」ではなかったか。
日本神道の最高神官でありながら、仏教を学び帰依するという世界の常識から見れば非常に衝撃的なことも、「国を、民を救いたい」という救国の心の前では些細なことだったのかも知れません。

現代の日本も聖武天皇の頃と状況が似ている。
火攻め、水攻め、地震攻め。そして相次ぐ流行病・・・。
いま新たなる鎮護国家の思想が求められているような気がしてなりません。

かつての聖徳太子や聖武天皇の時代、仏教とは当時の先進宗教でした。
果たして、いまその仏教に国を救う力はあるのでしょうか?

人類の『新たなる希望』とは

ギリシャ神話に有名な「パンドラの箱」の話があります。
「パンドラが神々から贈られた箱を、中を開けて見ることは許されていなかったにもかかわらず、その箱の蓋を開いてしまうと、中からありとあらゆる害悪が飛び出し、それ以降人類にはあらゆる災いが降り注ぐようになったが、唯一箱の中に残ったものがあった。それは『希望』であった」
という話です。

この闇深い時代において、私たち日本人が未来を拓いていけるか、そして理想国家建設の道を歩めるかどうかは、人間としての基本である「信仰心」を取り戻し、現代の『新たなる希望(A NEW HOPE)』を見いだせるかどうかにかかっていると、いま強く感じています。

私たちは過去や現在の時代にだけ責任を負っているのではありません。
未来に対しても責任があるのです。つまり、未来の人類に対していかなるものを遺していけるかという意味において責任を有しているのです。
そして、未来の人類に対する贈り物は、理想国家のモデル、繁栄のモデルを遺すことです。

未来は理想の上に築かれていきます。
青臭くても良い。理想を追い求める人が数多く出現することを願ってやみません。



『未来への提言』 序 (2010年)
『未来への提言』 上 (1997年論稿)
『未来への提言』 中 (1997年論稿)


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